叱られないということ

叱られないということ

またかくかくしかじかをキメて
ボロ泣きしていたので頭が痛い・・

読み返すと刺さるところが違う

今回は先生が子供のように喜ぶシーンがとてもまぶしくて泣けてくる。。
なんであんな気持ちで居続けることができるんだろう?
絵に対する憧れや焦がれの純度が高いから、いつでも人と絵について話したがっていて それが年下であろうが偉ぶらず大喜びで
営みそのものに対して、本当に汚れなく愚直に関わっていて そういうのが尊い
そういう関わり方を誰もがしたいと思ってるのに、いつの間にかノイズに支配される
それはたぶん、暇なんだろう
自分が没頭してる時間でしか、退屈は埋めることができないのに それ以外で埋めようとする

人は誰かに決めてほしいのだ
自分で考えて自分で選択するのは不安なのだ、間違うのも、こわいのだ。
大きな声で強引にひっぱっていってくれる人に集まるのだ
無理矢理にでも叱られながらでも動かされるのは、楽なのだ
叱ってもらえる環境は幸せだったのだ

大人になると、誰にも褒められもしない叱られもしない サボってようが誰にも咎められない その環境で、どこまでがんばりつづけることができるのかと考えたときに強いものは何か?
・・まだよくわからないが、人それぞれだとは思うが、
一つのパターンとして、
東村先生のナイーブさはちょっと違うかもしれんが、橋本元知事とか本田選手とか 主にビッグマウスだったり反感を買いやすい人を見てると
自分がそういう指導者の役割を買って出ることによって自分を奮い立たせているようにみえる
敵を作りコンチクショウって衝動を自家発電し
味方には自分が言ってるんだから自分がやってないとだめな状況を無意識に作っているように見える


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